「天山への侮り。それだろう。」
「えっ。真壁たちが負けた理由がですか?」
 プロレス者のSさんは、キョトンとした目で私を見やった。私の周囲にプロ格者は多いが、ほとんど、格闘技の話をしないプロレス者もまた何人かいる。Sさんは根っからの小橋ファン。しかし、昨年の中頃ぐらいから、天山広吉だけは、かなりの入れ込みを見せていた。
「天山は、蝶野から寸法を測ったのだと思うよ。天山にとってはもう、過去の遺物。闘うに足る相手ではなかった。天山はそう思ってたんじゃないかな」
 ところが、人間とは不思議な一面を持つ。私の頭の中に飛び回っている二次的な断片をいじくり回している。だから、ヘルニアを患ったのははいつだったかなどとボンヤリ考えていた。天山はいつの間にか金髪を止めていて、シューシューという不快な会場の掛け声すら消えていた。タイトルからも見放され、そして組んだ仲間からも。
 テレ朝の後楽園中継。30分にも満たない時間で深夜二時以降という劣悪な放送環境で繰り広げられる、戦いのセンスオブワンダー。

 天山の腰に、真壁の振り上げたパイプ椅子がヒットした。
「不用意に前に出ると−ーー」
 私が、こう呼ぶように言ったのと、ガツーンと真壁のパイプ椅子が飯塚の白い肌の腰を叩くのとが同時だった。
「どうして、あんなに天山を庇うのだろう。接点があまり見当たらないだろ。あれ…危ないよ。あんなの…」
 このド素人の『解説者的解説』が消えるか消えないかの歪んだ空白。それが、真壁たちにあの屈辱的なフォールをもたらした。
 
 負けるわけがないという侮りと、新日本道場長も務めた飯塚のプライドをかなぐり捨てた庇いっぷり。しかし、この日の矢野と真壁が天山を見ていた目も間違っていなかった。なぜって、ヘルニアが酷くなっていた天山と、今日の天山とは、動きに差があったからだ。集中力の違いと言ってもいい。真壁には、この天山の違いが読めなかった。
 その"違い"は何だったのか。発展途上にある天山の進化だと見る解説ではない。
<そうじゃないだろう。何かヘルニアと戦った天山にはなかったものが、今日の天山にあったのだ。あのアナコンダバイス。去年の中西たちとの負け試合に、今日のアナコンダバイスをあてがってみたら、すぐ分かる話だ。絶対に切り絵にはならない>
 
 テレビでは、飯塚と天山が会話を交わす。
「天山がやられているのを黙って見ている訳にはいかなかった」
「一緒にやりましょう」
 句読点の無い会話。お互いの流れ落ちる汗が、激闘を物語っていた。
 あの時の、100%解けきっていない雪の塊が、わずかな納得を私にもたらした。
<天山の行く末ねぇ>
 私はやっと本題に立ち戻った。安物の、頼りないボートはこれだから、困る。