テロップ所感

たまには、真面目に。
前にどこかで、障害者の害という文字が害悪(だったかな?)を想起させるので『障がい者』を言い換えるべきだという意見を読んだことがある。この人の意見について思ったのは、言葉を変えたところで健常者の意識を変えることにはならない。却って、表出する問題を隠してしまうんじゃないか、という事だった。元々、障害者も障碍者という文字で読めないから、「害」に書き換えただけなのに。
自分も運良く健常者であるのだが、いつ障害者になるかも分からない。こればっかりは、天命だとしか言いようがない。どうしようもない何か訳の分からない力が、働く事もある。知り合いの息子さんは、わずか20cmの台から落ちて脊髄をやられて、寝たきりの生活を送っている。自転車でこけても、海でおぼれかけても、車に引かれても、自分は幸いにも健常者であるが、その線はわずかなものでしかない。一瞬の何かが分けるのだろうが、誰にも分からない。霊とか一切信じていないけど、大きな何かを自分は信じているので無神論者ではない。*1大きすぎて理解できない概念を、「神」と定義する事で何とか分かろうとはしている。
自分の身内に関して言うなら、祖父は戦争で片足を失くし、松葉杖生活だった。親戚にも、小児麻痺のいとこや体の不自由な叔母がいる。母親に至っては、耳が全く聞こえない。このような構成だった為、ある程度は見慣れている。というか、小さい時からそれが自然の事だと思っていた。で、高校時代にサラッと家族の事を言ったら、『いや、ちょっとそれは重いな…。』的な空気でスルーされたのをきっかけに、言うのも憚れるような気がして封印してしまった。
ある時、ふと家族の話を封印していた自分を恥じる様になった。封印=存在していない者、として扱っているんじゃないか?と疑念を抱いたからだ。懇意となった女性と話すと、必然的に「家族」の話題は避けられない。その時に、家族のある部分を隠している自分が、身内の癖に身内を差別してるんじゃねーかと思い、自己嫌悪に陥ってしまった。ネットで不特定多数の人に読まれるのにも拘らず、こうして文字として残してるのは、なんと言うか、あれだ、こうする事で胸を張って素晴らしい身内だと肯定的な気持ちになりたいからだろう。
祖父は亡くなっているが、面白い人だったと思う。松葉杖ついて、ガンガン旅行に行ってた。大阪万博や、沖縄、満州、モンゴルと写真が残っていて、殆どの旅が一人旅だった。人の世話を嫌がり、引きこもらずに外に出てた祖父。しばらく彼の存在を忘れていたのだが、今思い出すとステキな人だった。忘れない様に、語り継がねば。
テレビでよく見かけるテロップなんだけども、視聴者を馬鹿にしてると思っていた。字を強調する事で、「ここ笑うとこですよ〜」とか。でも、耳の聞こえない母親からすると『あれはマジで助かる』と。実際、テロップが多用される様になってから、母と俺が一緒にテレビを見てて、お互いの笑い声が重なる事が多くなった。この経験から、テロップの事を否定的には思わなくなった。中には母の様に助かってる人もいるんだなぁと思うと、テロップに注目して見る様になり、「この背景の時にはこの色なんだな」「字体も変えてるんだ」とかテロップも意外と奥深くて、物の見方が変わってしまった。
障害者団体の方に思うのは、物を見る時の角度の違いを念頭に入れて話をしないと、大多数の健常者の意識と乖離してしまう部分がある。言葉どうこうじゃなくて、もっと実効的な点から運動して頂きたいなと、そう感じる次第。

*1:オーラの泉はクソだと思う